お寺の歴史
当山は、元『龍泉寺』と号す真言寺でした。
現在地の後方にある釈迦ヶ嶽の山頂に
弘仁十一年(八二〇)弘法大師空海により創建されました。
当時は七堂伽藍がそびえていたと言い伝えられております。
江戸時代に入り、寛永六年(一六二九)三月十五日
山梨県・身延山・久遠寺を総本山とする日蓮宗に改宗されました。
開山上人は法性院日侃上人で
山号を石用山(せきゆうざん)・寺号を涌泉寺(ゆうせんじ)
と改められて現在に至っております。
堂内には、能勢町の重要文化財と大阪府の
重要文化財の仏様を拝する能勢でも古刹のお寺です。
お寺の縁起
明王堂と言うお堂には、牛にまたがっている【大威徳明王像】を奉祠しています。
この大威徳明王が牛に跨っているところから、古くからいつとはなしに、牛の難病を除きたまう守護神として信仰を集めるようになりました。
お寺の呼び名も涌泉寺ではなく『牛堂さん』と呼ばれ、慕われてまいりました。
毎年一月八日に催される『牛堂講・八日堂講』と呼ばれている縁日には、郡内の村々を始め、大阪・兵庫・京都などの近郊の農家から、角にはウコンの布で角巻き・首には首襷・背中には油単の布を掛け
それは々々美しく着飾った自慢の牛を何日も掛けて連れてこられました。
其の当時の農家にとっては、人間よりも大切で頼りになる牛さんの健康と勤勉さ、そして五穀豊穣を心から祈願したようです。
お寺に来た時に、牛の足を痛めぬように履はかせてきた草鞋を、お寺に奉納して、新しい草鞋を拝受して履かせて意気揚々と帰って行ったそうです。
毎年一月八日の当日は、参拝者と牛が境内はもとより近所の空き地にあふれていて、たくさんの露店が軒を連ね、あちらこちらで自慢の牛の品評会をするなど、大層な賑わいだったと今に伝えられております。
現在も大威徳明王奉祀のお堂の内外には、各地から寄せられた牛の絵馬や講社の名札が軒一面に掲げられて当時の面影がしのばれます。
しかし、残念なことに、昭和三十年代頃より、農家も近代化と称して機械化されてきたために、牛の飼育が減り、それに伴って一月八日のご縁日のお参りもなくなってしまいました。
元より、牛のご祈祷寺と言うことで、一般のお寺さんのようにお檀家が無く、酪農家に依ってお寺を支えて頂いておりましたが、今ではその支えが無くなったわけです。
そこで昭和の終わり頃より、牛馬・家畜の供養だけではなく、大威徳明王の本来のお力を頂いて、人さまの健康と所願満足を叶えて頂けるお寺として、更にこの涌泉寺とご縁を頂けた人が、幸せになったと感じて、喜んでいただけるお寺としてリニューアルいたしました。
更に平成五年より「お人形供養」をさせて頂くようになり、平成十四年よりインターネット上に『お人形供養の寺』として紹介していただくようになってからは、外国からもお人形を送っていただけるまでになり、少しは全国的に知っていただけるお寺になりました。
また、平成二十五年より、皆さんがお食事をなさるときにお使いになるお箸やスプーンなどをハ(8)シ(4)の日に掛けて、八月四日をお箸の供養日として大法要感謝祭をさせて頂くようになりました。
そして近い将来としか言えませんが、耳のご不自由な方々に、法華経が人として最も大切なもの・無くてはならない教えで、生活に溶け込ませ、一生を送らねばならないと言うことを、手話を通して伝えたいと思っています。
その為に手話の勉強をしなければなりません。これがなかなかの難問ですが、七十の手習いで頑張ります。その節にはたくさんのお方とお仲間に成れることを切に願っています。